同じ職場の友達に薦められた。「自分がずっと求めていたのはこの本だったのでは…」と思うくらいの出会いだった。読んでいる間ずっと鳥肌が立ちっぱなしだったし、読み終えてからは余韻に浸ってしばらく現実に戻れなかった。
理由のひとつはたぶん、物語全体に漂うノスタルジックな切なさがあまりに惹きつけてくること。主人公の少年櫂は、ある日狂ったように家のあらゆるものを「処分」する母親から逃げるように、手作りのメカザウルスを持って外に出る。そのメカザウルスは「すてきに青いガラスのかけら」の目を持つ、櫂のお気に入りのおもちゃだった。それを『森』の中の『神殿の木』のてっぺんに隠すように括り付ける。
「親に捨てられてしまうのが嫌でおもちゃを森の木に隠す」と言ってしまえば、子どもらしく可愛い行為に聞こえるけれど、櫂の視点で語られる物語はそのような思考を許さない。櫂がメカザウルスについて説明する語りは、メカザウルスを単なるおもちゃだと読者に認識させない。それがどれほど特別で美しいものなのかが、透明で純粋な言葉で表される。それを読んだとき、「あ、この感覚知ってる…」とふと感じた。親にとっては今すぐ捨ててしまいたいぼろぼろのぬいぐるみが、自分にとっては言葉にはできないけれど大切な存在だったりすること。しかも櫂はそれをなんとも色鮮やかに表現する。純粋さとあどけなさを残しながら、複雑で繊細な心の動きを絶妙に語る。その子どもらしさと大人びた雰囲気のアンバランスさがまた哀愁を感じさせて、胸がきゅっと締め付けられる。
この物語は、失ったものへの懐古、失望、悲しみ、怒りで溢れている。櫂が学校の特別授業で訪れる博物館は、偽物と死んだものたちのたまり場だ。櫂はただの複製である模型を通り過ぎ、「本物だけど死んでいる」化石と鉱物標本の展示を見に向かう。そこは死んだ時間を生きているものたちの場所。琥珀の中に閉じこめられた羽虫の化石以外は。
「世界ははじめから廃墟」であり、時がたてば自分たちも朽ち、名前を忘れ、滅びてゆくのだと櫂は思う。それは切ないけれど、自然で素晴らしいことだ。
けれど、そこに立ちはだかるのが「保存」であり、「消費社会」だ。メカザウルスが括り付けられた「神殿の木」にほかのガラクタたちが集まってくるようになると、それを写真におさめようとする「カメラ男」と謎の「石膏男」がやってくるようになる。写真におさめ、拡散するということは、「保存」と同時に偽物=コピーを生み出す行為であり、博物館の模型と同じだ。『神殿の木』と一緒に写真を撮られ、雑誌に掲載された櫂は、本物の櫂が不在であるにもかかわらずその写真にうっとりと見入る母親や雑誌をこぞって買いあさる人々を見て恐くなる。おまけに石膏男は『神殿の木』を『ノスタルギガンテス』と、櫂を『イザナギのナギ』と名付ける。そして名付けられたことでその存在を確立された『ノスタルギガンテス』と『ナギ』は、ますます人々に「消費」されていくようになる。
名付け、保存し、複製する彼らと、それを消費する大人たちは、櫂の目を通して見ると歪み、本当のものの価値を見失っている、もしくは見えなくしている。けれど同時に、これは無意識のまま私たちが生活の中で行っていることだ。私たちは消費社会の中にしっかりと組み込まれているから。
読み始めた時、はじめ自分は櫂目線で読んでいた。けれど読み返した時、自分は物語の中のカメラ男であり、その他「あいつ」=『ノスタルギガンテス』を消費する大人たちであることに気づいた。結局自分は消費者の一人として消費社会の中に組み込まれている。複製されたものを買い、偽物に気がつかず、そこには本物が不在であることを気にも留めない。そのことに気づいて、とても悲しくなった。
この本は、美しくて残酷だ。櫂の純粋な瞳に映る世界の描写は、他の物語にはない透明感と独創性に満ちている。それでいて、彼の眼差しには刃が仕込まれている。メカザウルスの瞳のように鋭くて狂暴な。心を突き刺すような言葉やグロテスクな描写、大人たちへの批判が、ふとしたところで胸をえぐる。私たちはすでに飲み込まれてしまった社会の流れに翻弄される、無垢で無力な主人公の怒り、悲しみ、やるせなさが、儚い子ども時代へのノスタルジーへと私たちを導く本だ。
書誌情報
寮美千子『ノスタルギガンテス』1993,パロル舎.
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