私は、自然がしっかりと描かれている本がとても好きだ。人、動物、植物…さまざまな生物が共生していく様子を、愛情込めて描いた作品に出会うと嬉しくなる。上橋菜穂子なんかを読んでいると思わず、「あー、好き」とつぶやきたくなってしまう。
呉明益の『複眼人』は、まさにその最もたる作品だった。
まず、自然の描写がとても美しい。雨の降り方、空の色、海、木…すべてが生き生きと描かれ、その情景が鮮やかに浮き上がってくる。著者は本当に自然を、そして自然に囲まれた自国台湾を愛しているんだなぁ、と思わせる。
だからこそ、そんな台湾にゴミの島が衝突し、異常気象が発生し、昔の美しい島の姿が失われていく様は痛々しくてたまらない。あまりにリアルで、あまりに残酷で、救いようのない結末まで持っていってしまう。これが単なるフィクションだと思えれば良いけれど、半分はもう実際の世界で起きていることなのだ。
舞台設定は近未来となっているけれど、たぶん現代に限りなく近い未来。神話的な島ワヨワヨ島で生まれ育った少年アトレは、ある日島の掟により追放され海に出る。一方、台湾ではアリスが夫と子を失った喪失感で絶望に陥っていた。そんな時、ゴミの島が台湾に衝突し、人々を混乱に陥れる。
アトレとアリスをはじめ、先住民族や外国人など、物語にはさまざまなバックグラウンドや言語、文化を持つ人々が登場し、物語は次第に入り組みはじめる。ゴミの島問題に加え、捕鯨問題や先住民族の歴史、異常気象など、さまざまな出来事や過去、人々の思いが交錯し、絡み合う。途中、あまりに入り組みすぎて頭がごちゃごちゃになってしまうほど。
けれどそんな物語の、一見バラバラにしか見えない登場人物や生物たちは、みんな同じように何かを抱え、耐え忍びながら生きて死んでいく。生物同士の繋がりや、どんな人間もどんな生物もみな等しいことを改めて感じさせてくれる。
SFであり、ファンタジーであり、神話的であり、ノンフィクションである『複眼人』は、様々な要素や生きるものたちの思いが詰まった、いろいろな意味で重層的かつ分厚い物語になっている。
また、大きなひとつの世界がいくつもの視点で語られる物語でもある。これがまさに「複眼」であることなのだと思う。アリスやアトレの視点だけじゃない、たくさんの人々や生物の視点を通して読者は台湾を、物語を見ることになる。この小説自体が「複眼人」だ。
この物語において、痛みを抱えた人々が流すのは血ではなくて涙だ。アリスも、ハファイも、アトレでさえも。
人間だけじゃない。
海岸に打ちつけられたクジラに二筋の涙が伝い、「複眼人」は針先より細い涙を見せる。もしかしたら世界に降りそそぐ「激しい雨」は、痛みを負って流す彼らの涙なのかもしれない。
すべての命あるものと自然が訴える痛みのしるし。
読み終えると、物語の結末や登場人物たちが抱える胸の痛み、小説から想像される現実世界の未来に涙が止まらなくなった。
書誌情報
呉明益『複眼人』2021, KADOKAWA.
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